研究の背景を書いていると調子に乗って5ページ近くになってしまった。その中の論文ではカットした景観研究の将来について、個人の考えを備忘録的に書き留めておきたいと思う。ここに書いてある考えは、もちろん私一人の考えではない。今まで関わって議論してきたいろんな人たちの考えも入っている。こんなことを言い出したら、そもそも真にオリジナルがあるのかという命題に行きつくけれども、ここでは感謝の意を示すという意味であえて書いておく。そして、研究者ではない自分がこんなことを書いていいのかとも思うけれども、それも棚上げにしておく。意見・反論などはうれしい限りで、議論のネタにして本質に迫っていければと思う。
「景観研究」として風景を読み解いていくには、基本的に二つのアプローチがある。環境の物理的な側面を表す「見え」を明らかにしようとするアプローチと主観が介入しイメージ論的な「見方」を明らかにしようとするアプローチである。ここでの「見え」は、空間論で言うとユークリッド的な空間を指し、「見方」はアリストテレス的な空間をさす。シュルツの言うように、人間は、環境とかかわりあいながら自分を環境の中に定位しながら風景をみている。つまり、この「見え」と「見方」がインタラクティブに絡み合って現象しているのが風景を見るという行為なのではないか。なので、樋口忠彦先生がおっしゃられるように、景観研究は、「見え」と「見方」、両方の研究が必要であると思う。「見え」の研究は、ギブソンに代表される視覚心理学を中心に発展してきた。「見方」の研究はどうか。優れた研究も多くあるけれども、その蓄積は十分ではないと思う。研究の余地が十分にある。ちなみに、印象実験をして、それを表現する形容詞を統計操作しても、それは「見え」の研究でも「見方」の研究でさえない。この手の研究は、あらゆるフェーズに研究者の主観が介入しているのもかかわらず、そこから導き出される数値的結論はそれを感じさせないのが曲者だろう。研究に主観が介入するのは、悪いとは思わない。研究とは、そもそも主観(問題意識)がなければ成り立たないし、優れた研究というのは、えてして研究者の思想が研究全体に透徹されているものだとも思う。
話がそれてしまったが、今景観研究に求められているのは、物理的表層をなでまわしたものではない。そもそも、土木分野でもよくつかわれるようになってきたデザインという言葉は、物の物理的な側面を指す言葉ではない。
歴史のなかで、様々な見方が形成され、ある見方は消滅し、ある見方は持続してきた。それらは、なぜそうなったのか。歴史の中に現代に援用すると価値がある見方があるのではないか。そういった価値のある見方を知るには、研究の蓄積が必要である。
美人の定義の変遷が一番伝わりやすいかもしれない。江戸時代まで、美人とされていた人たちの顔立ちは、現在の美人とはだいぶ異なったものであったことはよく知られている。これも見方の変容によるものだ。これは一例で、現代に援用できないし、援用できたとひても喜ぶのは一部の人たちだけだろう。
つまり、景観研究に今度求められるのは、先人達が築き上げてきた表層の奥に潜む深遠で豊かな世界の一つ一つを明らかにしていくことではないかと考える。そうしないと、ポストモダンの失敗がまた繰り返され、表層と意味の乖離が生じてしまう。
まとまりのない文章になってしまったが、備忘録なので、ある程度考えがまとまったらまた書こうと思う。
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