最近、まちづくりに関するコンペに取り組んでいる。というか、公共政策に関するコンペだ。個人のスタンスとしては、まちづくりをデザインと混同する考えは理解できない。まちづくり研究にも懐疑的である。そもそも、コミュニティ形成まで行政が積極的に立ち入って舞台を整えてあげる必要性もあまり感じない。コミュニティ形成を受け入れる事が出来る都市や街をつくるという視点は行政にも必要かもしれないが、ソフトのシステムまで立ち入ることには、個人的にはあまり気が進むことではない。コミュニティ形成をアフォードするシステムを作る必要はあるかもしれない。しかし、最終的には当事者に委ねられることだと思う。誰かに決められた枠組みの中で交流するというのは個人的には好きではない。その考えの根底には、あまのじゃく的思想があるのだが。その場所に対する愛着は、自分自身がその土地に積極的に働きかけたときに得られるものだと思う。行きつけのカフェやよく休む場所など、誰かに決められることではない。
「まちづくり」という言葉の出自は不明である。「アーバンデザイン」や「都市工学」という分野が社会の一部としての役割を担うに至らなかった日本の土壌に起因していると個人的には考えている。オーセンティシティという言葉が使われ出して久しいが、「まちづくり」のオーセンティシティはどこにあるのだろうか。その場所の風土を読み解いて、その場所の延長線上に自然に馴染むプログラムや場所を形成する努力が必要だと思う。しかし、オーセンティシティを実現するには、お金がかかる。目先の利益を優先する商工会議所(そうでない団体ももちろんある)などが主体となってできることではない。まちづくり団体の自助努力や経営努力によって街の核ができたとしても、それらがうまくつながらないと、街全体の活性化にはつながりにくい。そういう意味で、まちづくりは、都市政策がしっかりしていないと上手くいかないように思う。日本のインフラのデザインにおいて求められるレベルが上がってきている。世界標準で見たときにそれがどのレベルというのは、今回は敢えて触れないけれども。
だが、日本人が自分たちが住んでいるまわりの環境に興味を持ちだしたことは、とても重要な一歩であると思う。「まちづくり」という言葉がそのような背景で使われ出したのなら、歓迎すべき事だと思う。
行政、研究者、実務者がそれぞれ自分の役割をしっかり認識して仕事に取り組む必要がある。それぞれがそれぞれにしか出来ないことがある。個人的には、まちづくりよりも、いい場所、美しい風景をたくさん日本につくっていきたいと思う。多様な人間が住む都市で、それぞれが自分だけのストーリーを語れるような容器としての都市。映画の背景のような都市というと誤解されるかもしれない。けど、映画の背景は、意外と普通である。色んな映画の背景を分析するのも面白いかもしれない。
建築家がホームランを目指すなら、ただのヒットでよい。公共空間の設計においては、そのようなヒットを打つことさえ難しい状況だと思う。ホームランを打とうとすると、大振りすぎて空振りしてしまう。仕事によって、自分が目指すべきものをしっかりと理解していなければならない。デザインの射程をしっかりと認識しなくてはならない。といっても、まちづくりの提案を考えていると、ホームランを打ちたくて仕方がない自分に気付くときもある。
まちづくりを語る人を見ると、今まで蓄積されてきた都市論が宙に浮いてしまっている印象を受けることが多い。まちづくりは、果たして都市論の中に位置づけることができるのか。都市論は、架空の「理想都市」を考えることで進歩してきた。しかし、「理想」という言葉は、都市には似合わない。都市は、欲望でうずまくドロドロした現実そのものだと思う。そういう観点から考えると、「まちづくり」は、都市論よりも進歩的かもしれない。
とりあえず、備忘録的にふと考えたことを書き留めました。
2009年6月4日木曜日
2009年6月1日月曜日
[BOOK REVIEW] 大徳寺散歩_司馬遼太郎
伊右衛門カフェで偶然見つけた本。研究の為になればと思って読み始めたが、本としても面白く楽しめた。一休宗純や沢庵などに焦点を当てながら、大徳寺の成り立ちと臨済禅の思想をわかりやすく語ってくれている。研究には、推論が多すぎてあまり使えないかもしれないけれども、思考のヒントがたくさんあった。
一休は、「狂雲集」などで自ら語っている過激な内容などから、羅漢の悟りを開いた人物として認識されてしまうことが多い。しかし、この本を読んで、彼の本質はそこになかったような気がした。人間の本質は、表面的な言動で推し量れるものではない。そう考えると、ひととの交流関係からその人物を読み解いていく方が説得力がある。相対して感じるその人が持つ空気や仕草などの方が、その人の本質を表しているのかもしれない。歴史上の人物は、その人が行った行動の一部分が伝えられているだけで、その人物像を推測するのには少し無理がある。司馬遼太郎は、そこらへんの推測と記述、表現が卓越していて、読んでいて面白い。
この本を読んで、一休宗純に一種のシンパシーを感じた。自分のやりたいようにやるが、それが、結果的に社会の役に立つ。我が儘であると同時に、まわりのことをよく考えている。
禅の思想の中に、二項対立の中に本質があるとする考えがある。もう少し詳しく言うと、二項対立の中に両義性を見出し、それが事象の本質であるとする考えである。禅の思想が一見取っつきにくいのはこのことに起因していると個人的には思う。
この本の中に「億劫須臾」と言う言葉が紹介されていた。億劫とは「永遠」を指し、須臾とは「刹那」を指す。もとは、大燈国師の言葉らしい。この言葉が指すことは何か。想像が広がる。この言葉を知ってまず思い浮かんだのは、人の感情についてである。例えば、二人の人がいたとして、物理的に永遠に一緒にいたとしても、気持ちが通い合っていなければ一瞬も側にいることにはならない。逆に、物理的に一緒にいなくても、気持ちが通い合っていれば永遠に一緒にいるのと同じである。へそまがりなので、個人的には、あまりこのような考え方は、当たり前すぎて敢えて口に出すのも憚られるけれども。
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