伊右衛門カフェで偶然見つけた本。研究の為になればと思って読み始めたが、本としても面白く楽しめた。一休宗純や沢庵などに焦点を当てながら、大徳寺の成り立ちと臨済禅の思想をわかりやすく語ってくれている。研究には、推論が多すぎてあまり使えないかもしれないけれども、思考のヒントがたくさんあった。
一休は、「狂雲集」などで自ら語っている過激な内容などから、羅漢の悟りを開いた人物として認識されてしまうことが多い。しかし、この本を読んで、彼の本質はそこになかったような気がした。人間の本質は、表面的な言動で推し量れるものではない。そう考えると、ひととの交流関係からその人物を読み解いていく方が説得力がある。相対して感じるその人が持つ空気や仕草などの方が、その人の本質を表しているのかもしれない。歴史上の人物は、その人が行った行動の一部分が伝えられているだけで、その人物像を推測するのには少し無理がある。司馬遼太郎は、そこらへんの推測と記述、表現が卓越していて、読んでいて面白い。
この本を読んで、一休宗純に一種のシンパシーを感じた。自分のやりたいようにやるが、それが、結果的に社会の役に立つ。我が儘であると同時に、まわりのことをよく考えている。
禅の思想の中に、二項対立の中に本質があるとする考えがある。もう少し詳しく言うと、二項対立の中に両義性を見出し、それが事象の本質であるとする考えである。禅の思想が一見取っつきにくいのはこのことに起因していると個人的には思う。
この本の中に「億劫須臾」と言う言葉が紹介されていた。億劫とは「永遠」を指し、須臾とは「刹那」を指す。もとは、大燈国師の言葉らしい。この言葉が指すことは何か。想像が広がる。この言葉を知ってまず思い浮かんだのは、人の感情についてである。例えば、二人の人がいたとして、物理的に永遠に一緒にいたとしても、気持ちが通い合っていなければ一瞬も側にいることにはならない。逆に、物理的に一緒にいなくても、気持ちが通い合っていれば永遠に一緒にいるのと同じである。へそまがりなので、個人的には、あまりこのような考え方は、当たり前すぎて敢えて口に出すのも憚られるけれども。
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